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95, rue du Faubourg Saint-Honoré
75008 PARIS - FRANCE
Tel.: (33) 1 40 06 06 60
Fax: (33) 1 40 06 96 86
e-mail : galerie@jacques-bailly.com

ジャン・デュフィは 1888 年、ル・アーヴルで 11 人兄弟の 7 番目として生まれる。父は金属会社の会計係で、才能ある音楽愛好家であった。 ル・アーヴルで過ごした青年時代、海外製品の輸入会社で使い走りとして働き、次いで、ル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船、「ラ・サヴォア」で秘書をしていた時代の絵は、殆ど我々の手元に届いていない。

しかし、彼の芸術的感性が形成されたのはこの時代であった。ル・アーヴル港を散歩し、ボードレール、マラルメ、そしてランボーの作品を読み、1906年ル・アーヴルで開かれた展覧会で、マチス、ドラン、マルケ、そしてピカソの作品と出会う。決定的な体験となる、マチスの「コリウールの窓」 の輝く光、激しく騒々しい色は、ジャン・デュフィにとって、今後たどるべき道の発見であった。

兵役(1910-1912)を終えた後、パリに移り住み、ドラン、ブラック、ピカソ、アポリーネールらと出会う。 1914 年に画廊 Berthe Weill で展示された初期の水彩画では、鈍い基調色、褐色、青、暗い赤が、兄ラウルの作品を通して受継がれたセザンヌのハッチングの技法と共存している。

この初の展示後、動員されるが、カルネに絵、デッサンを描き続ける。花、馬、そして、戦争から戻り病身で滞在したヴォージュ地方のヴァル・ダジョルの風景のように、出会った風景などを主に描いた。

兄と共にリヨンの有名な絹織物業者、ビアンシニ・フェリエのテキスタイルデザインのアトリエの仕事を短期間した後、ジャンは、1916年から30年以上にわたって、リモージュのテオドール・アヴィランド社の陶器の装飾、花や動物のモチーフ、を手がける。中でも 「シャトー・ドゥ・フランス」シリーズが、1925年の国際装飾美術展で金賞を受賞する。

1920年パリに戻ったジャンは、モンマルトルのジョルジュ・ブラックの近所に居を構える。強烈な芸術的気運が高まる中、彼の作品は、相次ぐパリでの展覧会( 1920, 1923, 1924, 1927 年、そして 1932 年のシャンゼリゼのグラン・パレでのサロン・ドートンヌ展、そして、 1929 年 Galerie Bing )で、そして、ニューヨークの展覧会( 1930 年 Balzac Galleries 、 1938 年 Perls Galleries )で、やっと日の目を見ることとなり、カラリストの才能が明らかとなった:色のスクエアのパッチワーク、白の陶器が唯一明るさを示す Nature morte à la tasse (1921) で見られるような、大胆な光の配置。

戦後のパリにおける2つの文化的な出来事がジャン・デュフィの芸術的進路に決定的な影響を与える。 1920年の演劇「屋根の上の牡牛 」で、当時の音楽家達 ( ダリユス・ミヨー、ジョルジュ・オリック、エリック・サティ、フランシス・プーランク、アルテュール・オネゲル ) と出合い、1925年の「ルヴュ・ネーグル」は、色彩と音楽の新しい結合を彼の作品にもたらし、素晴ら しい作品の源となる。音楽のテーマは、アナロジーをふんだんに使った様々なバージョンのピアニストとオーケストラの作品のインスピレーションのもととなる: 譜表上のロンドのように描かれた音楽家の頭、音符のように並んだオルガンのパイプ、休符のように置かれたハープ。 またこの時期、フラテリニ兄弟へのオマージュのサーカス、そしてピエロの絵がある。音楽の色、言葉の色が溢れ、光のゲーム、そして、特にピエロ、馬、そして競技者に多く使われた白への傾倒が見られる。  Le cirque (1927) は、その頂点といえる作品である:力強い色彩は、赤、青、黒そして黄色をして強烈な白へのオマージュと成している。

これに続く時期、ル・アーヴルに幾度も滞在し、色のハーモニーが完璧な Le quai Videcoq au Havre (1929) のような見事な作品が生まれた。母の生地オンフルール、1920年から滞在をするヴィルフランシュ・シュール・メール、そして毎年一時期妻と住むリムザンとトゥレンヌが、彼の他の最も素晴らしい作品にインスピレーションを与える:森と谷の景色、リオン城の景色。

1937年の万国博覧会では、 C.P.D.E. (パリ電気供給会社)の社長が、兄ラウル・デュフィに電気館の装飾を依頼する。そうしてジャンは、電気を賛美する面積600平方メートルの大きな壁画の制作を手伝う。

晩年(1950-1960)は、旅に費やされ、主にヨーロッパ(イタリアとギリシャ、英国とアイルランド、オーストリア、デンマーク、スエーデンそしてオランダ、スペインとポルトガル)と北アフリカを訪れる。しかし、結局はパリ、35年間、彼が最も愛したのはパリだった。同時代のアラゴン、ヘミングウェイ、あるいはプレヴェールが著述し、またユトリロ、シャガール、あるいはマルケが描いたように、ジャン・デュフィは、その油彩あるいは水彩に、飽くことなくパリを選びつづけた。その制作プロセスは常に新たにされ、そこにはブルーのハーモニーが際立っている:パリの門、通り、馬車、エッフェル塔、空、セーヌ川の飽くことのない創造の源としてのブルー。

認知された画家として、その作品は、定期的にパリ (Galerie Barreiro, Galerie Jos. Hessel, Galerie Drouand-David 等 ) 、アメリカ ( フィラデルフィアの Galerie Georges de Braux, ウェストウッド・ヒルズの James Vigeveno Galleries, ニューヨークの Hammer Galleries と The Chase Gallery) で展示され、シカゴ美術館やニューヨーク近代美術館といったアメリカの最もプレステージの高いミュジアムのコレクションに収蔵されている。ジャン・デュフィは、妻イスメリが亡くなった 2 ヶ月後、1964年5月12日ブセー村の別荘ラ・ボワジエールで死去する。

 

Galerie Jacques Bailly © Copyright 2005